2024.12.19 僕の高校サッカー 五十嵐誠幸(3年)
作成日時
2024/12/194:17
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僕の高校サッカーとこの学年について、長々と、誠心誠意書いたので、よかったら最後まで読んでいただきたいです。
僕は生まれつき左膝に怪我を抱えており、小学校の頃から練習を離脱することが多くありました。マリノス追浜に入団してからも怪我に悩まされ離脱する期間が長かったですが、僕が現在憧れている存在でもあるトレーナーに出会い、自分の身体に向き合うことの大切さと、そしてその向き合い方を教えていただきました。中1のときには、試合での接触プレーで右膝を手術しました。中3では生まれつきの左膝を、高校で伸び伸びプレーできるようにと手術しました。しかし、その手術の副作用のようなもので膝が適用できず、プレーをしたら膝に水が溜まるようになってしまいました。そんな中で、練習中はチームのサポートをして、練習後の限られた時間で自分のトレーニングに取り組むということをずっと続けてきました。正直、気持ちが不安定になることも頻繁にありました。ボールを蹴る音を聞くだけで涙が出てくることもありました。特に火曜日の走りではみんなと一緒に辛い思いをできず、息も何も上がっていない自分が情けなく、気持ちを前に向けることができない日も多くありました。そして、復帰間近で膝に水が溜まったり、逆の膝を怪我したり、思うように復帰ができず、気づけばもう3年生になっていました。3年生になってからは、自分の膝と相談しながらなるべく練習に参加していきました。
そしてついに、今年の8月2日。初めて練習試合に出ることができました。ラスト15分の出場でしたが、校内合宿の前日にも関わらずほとんどの3年生が観に来てくれました。結果は2失点に関与するという凄まじい活躍でした。試合後にみんなを見ると自然に涙が流れてきました。数えきれないほど怪我で泣きましたが、怪我のことで初めて嬉し涙を流すことができました。その後、梶くんには、「なに泣いてんだこれからだぞ」と言われましたが、本当にこれからでした。それからもずっとプレーを続けるということはできず、休みながらの参加になりました。
僕は、最終節に出るという目標で取り組み続けました。そしてみんなが残留を決めくれて、順位も決定したので、最終節に出ることができました。法政戦は非常に拮抗した試合で、膝がはちゃめちゃになりそうだなと思いながらも、試合終了間際に出場することができました。最終節の終わりを告げる笛が鳴ったとき、3年間自分と闘ってきた達成感と、プレーした後にもうアイシングをする必要がなくなり熱を持ったままの膝を触ったときに、大きな喪失感を感じました。こうして僕の選手としてのサッカー人生が終わりました。
正直、何度も挫けました。しかし、逆の膝を怪我して泣いていた僕に「お前なら大丈夫」と言ってくれたひろ、一年のときのリハで一緒にトレーニングしすぎて一緒に体重が増えすぎたじん、練習後に走ると言ったら一緒に走ってくれるたなそう、僕が泣いてるときに1人だけ空気を読めず話しかけてくる波多野、選手権期間自身が出れず家で泣いているのにみんなの前では笑顔で応援の先頭に立つりいち、リハのとき2人で体幹やりまくったしゅうた、中学のときとは別人になってサッカーに向き合っていたなお、去年桐光に負けたときスタンドで、来年絶対ここに立つと言い人間を変えて本当に立ったかっけーりゅう、ヘディングの練習に永遠に付き合わせてくるおも、校内合宿で同部屋で何度も一緒に絶望を感じたせいじ、リハのとき一緒にふくらはぎと内転筋を追い込んだストイック男ふみや、みんなとプレーできない中でも先頭でK2を引っ張ったしゅんせい、最後の方は痛みを抱えながらも一緒に戦っただいき、一人になってもキーパー練を耐え抜いたたすく、僕がきついときは話を聞いてくれ、チームを最後まで引っ張ってくれたてつ、そして特に、何回きつくなっても支え合って戦い抜いたたいしとあむ。このみんながいたから、自分のやるべきことに本気で向き合えたし、全力でサポートし続けることができました。このチーム、学年の強いところは、まずは学年全員がサッカーが大好きで、本気でサッカーに向き合っているところです。そして、僕を含む試合に出れていない選手や怪我をしている選手も、本気でサッカーに向き合い、自分に向き合えるというところだと思います。それを見ている1.2年も、自然とそれについていき、最高のチームができたと思っています。
正直、今でも、サッカーを3年間できていたら、自分がスタートで出ていたらどうなっていたのだろう。と考えることはよくあります。特に選手権期間は、学校や、神奈川からも注目される友達をみて、自分も試合に出るために創英に来たのに。と、無駄なことを考えたり、プレーできないことに対しての気持ちで涙を流したりすることもありました。けれど、チームのために頑張っているリハビリのあむやたいし、後輩を見ると、そんなことを考えているのが情けなくなりました。僕は、そのようなことを考えることがあっても、あのときこうしていたらよかった、という後悔は、一つもないです。チームのためにできることを考え、自分がすべきこともできたと思っています。
僕は、生まれつき膝が「悪い」という表現をしたくありません。それは、こんな最高な仲間に出会え、これ以上ないと言える経験をできたのはもしかすると、この左膝のおかげなのかもしれないからです。僕は、この代で産んでくれた両親に、感謝しています。そして、この左膝で産んでくれたことに感謝しています。家では、心に余裕がなく、あまり怪我のことを話さずに心配をかけてしまいましたが、12年間支えてくれてありがとうございました。
書きたいことが多すぎてとても長くなってしまいましたが、ずっとプレーできなかった僕だからこそ言えることは、試合に出れない選手も含め、全員でサッカーに向き合い、同じ方向を見ることがチームの強さにつながるということ。そして、怪我をしていたり、試合に出れなかったりしても、自分に向き合い続け、行動することをやめなければ、結果は実らずとも自分の人生において大切なものを得ることができるということです。来年からの創英も、強いチームを全員で作り、僕たちの学年が残したものを塗り替えてくれることを楽しみにしています。卒業して僕はサッカーを引退して、トレーナーの道を目指して勉学に励みます。僕と同じような選手を一人でも多く支え、サッカーという最高なスポーツに携わっていきたいです。
五十嵐誠幸